日本のてっぺん・きた北海道を拠点に『沖ヨガインストラクター』として活動しているまなみんです(╹◡╹)
私は、愛知県出身。
ヨガに出会ったのが20歳で、インストラクターになったのが、26歳。今は42歳なので、『先生』と呼んでいただくようになってから、16年経ちました。
先生と言えば、学校の先生、病院の先生。子どもの頃って、そんな認識だったような気がします。
しかし現代は、様々な学びのジャンルがあり、果てしないほどの資格取得の道があり、『先生』と呼ばれるヒトたちがあちこちにいるような印象であり。
その中でやはり手堅いのは、『国家資格保持者』であるコト。
どんな資格であれ、国が出している資格ならば、それなりの時間とお金と労力がかかり、それ相当の努力を積まなければ、取得するコトは出来ないのだろうと思います。
とにかく世には、いろ〜んな先生がいる。私も含めて、です。
私は、ヨガをお伝えさせていただいているけど、24時間ではないです。
当然ですね笑
ヨガとしてレクチャーをさせていただいている時間はあれど、それ以外の時間にも親ほど年上の方から、倍ほど生きていらっしゃる方から『先生』と呼ばれるのはとても違和感があり、『まなみん。と呼んでください(^O^)』と、よくお願いします。
教える・学ぶに歳は関係ないとは思いつつ、よっぽど学ばせていただきたいのは私なのだし、年の功はやっぱり大切。単純にそう思うので。
しかし、それでもやはり『先生』と呼んでくださる方もいらっしゃる。それはそのヒトの表現だから、今はさほど気にしなくなりました。
まあ、私を呼んでくださっていると分かればそれで良いか、と^ ^
こう在らねば!というのもないです。
むしろ、なるべくありのままで在れたらいい。
どんな肩書きがあろうが、私は私なので。
大きく見せるコトも必要ないし、いつまで経っても知らないコト分からないコトはあるし。
しかし、先生と呼ばれるからにはという『想い』はあります。『責任』のほうがしっくりくるかな。
まず何よりは、『学ぶ意欲』を持ち続けて行くコト。
そして日々の中では、『相手を断定しない』コトと『尊重する』コト。これは、自分がそう求めるからでもあります。
『何事も自らの命に聴け』
この教えに強く共感して、沖ヨガを学び深めたいと思いました。
私がどうしたいか。何をお届けしたいか。も大切だけれど、相手が何を求めているのか?どうなると楽になるのか?と言うのは、それと同じだけ大切。
『寄り添える深さ』を磨いてゆきたい。そして、『謙虚』で在りたいです。
沖ヨガの師である石井三郎先生が、メールをくださるたびに、ほぼ必ず、最後に書いてあるんです。
『慢心にならぬように。まわりのヒトへの感謝を忘れぬように。』
これが先生から私に、何より教え聴かせたいと思われるコトなのだろう、と。
私がお調子者で、勢いでばかり進むので(^_^;)
先生はそんな私に対して、不安にもなるのかも知れません。。。
◎東京神田『ファミリーヨガ』HP→★★★
『謙虚さ』って取り繕うコトが出来ないのだなあと、様々な出会いの中から思います。
『この方は偉そうだなあ』と感じた時、『そんなコトを思う私こそ大丈夫かな?』と、自分を見返るコト。
断定していないつもりでも、揺るぎない信念があるがゆえに、強過ぎる表現になるコトもある。。。
私はこうして、『言語』によって発信するコトが好きで、その頻度はかなり多いので、何かあるたびにハッとするコトもあるし、反省するコトもよくよくあり(・・;)
やはり結局失敗もするけれど、取り返しのつかないコトとならぬようにと、言い聞かせつつ。
謙虚であるコトは、きっと、さらなる学び場を与えていただけ、それをお伝えさせていただく場も与えていただけるのだろうと思うのです。
思えば、『ヨガインストラクターです』と、ある時いきなり活動を始めた私を、たくさんの方が育ててくださり、ここまで何とか歩いて来るコトが出来ました。
いくらお伝えしたくとも、それは、私にその場を与えてくださる方々の存在があってこそ。学んでくださる方に支えられての日々。
慢心となれば、いろんなコトが崩れ落ちて行く。
謙虚であるコトと自己否定は全然違う。
慢心と自信を持つコトも、違う。
その違いを見極めていたいなあと、ふと思った夜。
『謙虚とは何か?』生涯にわたっての実践的な学びです。
ヨガを生きる。
生きたヨガを学びをお伝えしてゆきたいです。
ありがとうございます。
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