日本のてっぺん・きた北海道を拠点に『沖ヨガインストラクター』として活動しているまなみんです(╹◡╹)
先日、故郷である愛知県にて受講してきた、『沖ヨガ指導者養成講座』の中で、師である石井三郎先生・久恵先生から学んだコト。
全部は無理でも、忘れずに刻んでおたいコト、いただいた教えを通して感じたコトなどを書いておきたいと思います。
◎昨日書いたのはこちら→★★★
今日は、『私にとって沖ヨガとは?』というコトを。
沖ヨガの創始者である沖正弘先生は、若い頃から世界各地を巡り、様々な出会いを経て、インド伝統のヨガに加え、宗教、東洋医学、民間療法など、様々な要素を取り入れて、『沖ヨガ』として世に出されました。
私は、日本というこの国に、何だかよく分からないほどに惹かれています。日出づる国、日本。
しかし、『愛国心』と言われると、何か違う気がする。。。
もちろん、日本が好きで、ここに居たくて居るのだけれど、私は、世界各地からこの国を観たコトはないです。だから、『よく分からない』というのがホントなのかもしれないですが。
私を形成する細胞ひとつひとつに宿る遺伝子に、この国の在り方、文化や教養がすでに組み入れられている。それを私という命が、私にあれこれ教えてくれている。
私はそれを受け取り、日々暮らさせていただいている。
そんな中、なぜだか分からないほどに沖ヨガに惹かれ、突き動かされるように『このヨガを学び極めたい!』とまで思うその原動力は、すでに、私の中に在るモノのチカラだと思っています。
これ、
そうだからそうなんです。このようになっています。
としか、言いようのない感じなんです。
私の命が、沖ヨガを学び深めるようにと教えてくる。
こんな言い方をしたら、変でしょうか。
しかしそれが、私にとって一番にしっくりくるコトバとしての表現です。
厳密に言うと、沖ヨガというツールを用いて『命に聴く』と言う生き方の術を学び、私と言う命の声を聴き、日々暮らしている。
だから私は、沖ヨガの教えを元にして教える石井三郎・久恵先生に師事し、日々、魂の進化向上を目指し、自らと向き合うコトを学びとしています。
と言うコト。
沖先生にお会いしたコトはないけれど、沖先生が世にお伝えしたかったのは、まさにこれなのではないかと、勝手に思っているのです。
勝手にというか、私の命がそう教える、感じているのです。
ひとりひとりの命は尊い。
肉体とは、その命が宿る神殿であり、その尊いひとりひとりがどう在りたいかは、命が全部分かっている。
誰しも、生まれてから肉体をお返しするその瞬間までに果たす役割を持って、生まれて来ている。
その役割とは、大きい小さいではない。
どこの視点から誰が観るのかにより、大小は違って観える。肝心なのはそこではなく、ちゃんと自らとつながって、そこからの教えを受け取るコトが出来ているのか、というコト。
それが出来ているなら、『しっくりくる』と言う感覚が在るのだと思う。
しっくりくる。この感覚って、すごい大切だと思うのです。
ヨガにおいて行う、『アーサナ・プラーナヤーマ』という、いわゆるポーズをとるコトと呼吸を深めるコトは、肉体のお掃除、そして浄化、そして、命の声を聴くための準備にもなる。
カラダを通してココロにつながり、集中し、さらに命の声を受け取りやすい状態が生まれるから。
その仕組みを分かりやすく解いたのが『ヨガ』であり、その様々なヨガの中で、日本の風土に合わせ、人の気質に合わせ、かつ、宗教観や心地よく過ごせるためのお手当法などまで盛り込み、かつ分かりやすくしたのが、沖ヨガなのだろう、と思う。
こんな書き方をすると、『日本人は日本人なんだから、沖ヨガを学ぶのが一番!』みたいな感じかもしれないけれど、そうではないのです。
自分にしっくりくる学びに出会えるコトが何より。です。
素晴らしい師に出会い、真似るコトから始めて、自己探求を深めて行けばよくて。
その様々な学びのアプローチのひとつに、沖ヨガがあるよ。というコトです。
石井先生夫妻はよく、『我々のヨガでは、』と言う言い方をします。
それは、他を否定するモノではなく、アプローチの違いを伝えているモノだろうと思う。
違いを知るコトで、向き不向きも見えてくる。
ようは、『自分をよく観なさい!』と言うコト。
いつまでも知識ばかりを増やしていても、それを実践し、体験の中で学び、その体験を通して身にしてこそ、それは『生きた教え』として華やぐ。陽の目を見ると言ってもいいです。
知識とは、時が過ぎれば薄れて忘れて行くモノ。
しかし、実践の末の経験値は、ますます命のヒダを増やしていってくれるのだろう、と。
これはもう、毎回言っているし書いています。
耳にタコが出来ると言われそうだし、もう分かった!とも言われそうだけど、また書きます。
正しい間違っているではない!!
今の自分に合っているかどうか、です!!
『今の自分』と言うトコロがこれまた大切。去年と今年の自分は違うし、昨日の自分ともまた違う。
ヒトと自分はそもそも違うのだから、自分をベースにして比べて、あれこれ言っても仕方がない。
仕方がないんです!
だから、非難したり否定するのではなく、自分と他との違いを認識し、より自分を知れば良いだけのコト。
それが、『他が存在する価値』です。
他が存在しなければ、『自分という認識』が、そもそも生まれない訳で。
生まれたばかりの頃は、産んでくれたお母さんと自分との境界線が曖昧だと言う。それがだんだんと、自分とお母さんの境界線が分かってきて、もっとすると、お母さんとお母さんではないヒトの違いも見えてきて、人見知りが始まって。
命はすでにあれこれ言わなくても、育つように遺伝子が組み込まれていて、一番に楽なのは、そのヒトらしく育つコト、だと思うのです。
育つ環境はめちゃ大事だけど。それによって、本来の才能が開花するかも決まったりする。
しかし、いくら自らの想いで親があれこれ言って、時に環境を押し付けても、子どもは『育つようにしか育たない』し、時に手を出し過ぎれば、『本来育つ命の邪魔』にもなる。
そんなコトなら、ヒトを何とか育てようとするより、まずは自分自身の成長に意識を向け、子育てを通して親として学ばせていただき、育てていただいている。と受け止めたほうがいい。と思うのです。
子どもがどうするのか、どうなるのかは、子ども自身の問題。
その中で、親として、溢れんばかりの愛があるから、親は祈るんです。どうか幸せでいてくれますように、と。
私たちには、『祈り』という素晴らしいチカラがある。
命最大のチカラを、愛と呼ぶのではないか。
愛は、感謝や喜び、そして祈り。時にその愛が、怒りや悲しみに表情を変えて出てくるけれど、その向こうにあるのは、結局、愛です。
愛でしかない。
それが、すべての原動力だから。
その、すべての原動力の元に意識を向けてみるコト。そこには、ああだのこうだのという能書きは、何も書いてない。
でも、いきなりそう言われても困るから、日々の修行の場、何気ない暮らしがあり、学びやすい知識を得る場が様々にある。
どこで何を、誰に学ぶかは、めちゃ大切です。
自らの魂の進化向上を目指し日々に尽くすコト。それは同時に、他を生かすコトにもつながる。
沖ヨガではそれを、『自他共に生かし合う』と言います。
笑顔溢れるより豊かな毎日を目指して。
私は沖ヨガをベースに命に触れ、そこで経験した様々を世にお伝えさせていただくコトを、自らの役割だと思っています。
なんて言っても、そんな難しいコトでもないです^ ^
それが楽しいので。嬉しいので。
ぜひ、たくさんの方々に、沖ヨガの叡智に触れていただきたいと思っています。
師である石井三郎・久恵先生にも、ぜひ出会っていただきたいな、と。
◎東京神田ファミリーヨガ→★★★
出張クラスさせていただきます。物理的に可能な場所であれば、どこへでも〜
ぜひお声がけくださいませ。
娘が書いてくれた私です^ ^
ありがとうございます。
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