なるようになるし、なるようにしかならない。肝は、『決断するチカラ』だと思う。

日本のてっぺん・きた北海道を拠点に『沖ヨガインストラクター』として活動しているまなみんです(^^)

 

生きているという役割について、ツラツラと思うコト。

人生最大のミッションは、自分の可能性を最大限に引き出し、それを、この世の循環の一部として最大限に利活用してゆくコト。

そのために必要なコトは、少しでも具体的に、より鮮明に、その最大限に引き出した可能性を想像し、創造して、いかに『現実世界』に落とし込んでゆくためのイメージを広げてゆくコト。

そのために何より手っ取り早いのは、『とにかく行動する』コトだと思うのです。

ひとまずでも、具体的に動いてみるコトで何かしらのきっかけが生まれ、ヒントが与えられ、結果、チャンスにも恵まれる。

イメージとは、頭の中での想像ではなく、それをいかに現実へ投影し、創造してゆけるチカラなのだと思う。

 

想いは大切だけれど、それだけでは役には立たない。

『こうなったらいいな〜』だけでは、やっぱり、何の役にも立たないんです。

多分、あげくに、そのぼんやりした中途半端な妄想に振り回されて、心身が乱れる元ともなると思うんです。

想いをなるべくに現実世界に落とし込もうとし、様々に試行錯誤してゆくから、そこを乗り越えるための課題が見えてくる。そして、そもそもなぜこれをやっているのか?というコトも含めて、いろんな『疑問』が見えてくる。だから、その解決策を見出すためにまた新たな具体策を模索し、それがまた、新たな行動へとつながってゆく。

それらの経験値が、命をグッと底上げしてゆくのだろう、と。

大切なのは、成功体験ばかりではなく、そんな日々の具体策の積み重ね。そのもの。

循環。

『行動力』こそが生きるチカラの源であり、時に温存期があったとしても、それはやはり、また動き出す時のための充電なんだと思う。

エネルギー満タンになりながらも、その命のチカラを持て余していたなら、行き場をなくして停滞したエネルギーが、漏電したり、時にトラブルにつながったりもする。

『何となく』と言われるような想いって、本能から湧いてきたまんまの状態なんだと思うし、すごく大切な感覚だと思う。けれど、そのぼんやりしたまんまでは消化不良になるし、スッキリと分からないからなお、ジレンマにもつながる。

生み出したエネルギーは、使ってこそ。

それが循環してこそ、何かのチカラへとつながり、役にも立つのではないかと思うのです。

 

とにかくこれ、『循環』が大切!

循環するためにはやっぱりこれ、『行動を起こす』コト。

いくらエネルギーを生成しても、それをまわしてゆけるだけの『動力』が必要で、ヒトで言うなら、それを『気力』と呼ぶのだろうと思う。

体力は騙し騙しでも、なんとかなる。

しかし、気力はそうはいかない。

気力が萎えると、なんとも難しい。進まなくなる、動かなくなる。つまり、いろいろが止まってしまう。

巡らせるチカラが、私たち生き物には欠かせないし、それこそが『底力』となるのではないか。

だからやっぱり、そのために、具体的に動いてみるコト。

具体策があるから、今この時進んでゆける。ひとまずでも、動き始めるコトが出来る。

哲学は大切だけれど、その大元のような部分って、きっと日々の何気ない行動ひとつひとつが支えている。

循環を起こすために想いを具現化してゆく。結果的にするかしないかではなくて、まずは、そうしようとする想いをカタチにするコトが大切なのであって。

 

自分を心底肯定できる楽チンさ。

私のベースには、『行動してこそ、具体的になってこそ』という想いがいつもあるから、やっぱりいつも、すぐにやってみる。

その結果、上手く行ったコトもあれば、行かなかったコトもたくさんある。

それってどっちが多いんだろう?と、今この文章を書きながら考えてみたけれど、上手く行ったコトにもそうでなかったコトにも流れがあって、その全てにはつながりがあるから、部分的に観たら成功したと思うコトはあれど、人生に起こる様々な出来事を分断して考えるほうが、かえって難しいように思った。

日々にあるすべて、生まれて以来起こった出来事すべての総決算が今の私なのであり、それが失敗なのか成功なのかと考えると、正直、よく分からない。

ただ明確に分かっているのは、20代の頃のもっと勢いのあった自分より、30代の頃のもっと取り繕って何とかしようとしていた自分より、40代の今の方が、好きだと言うコト。

自分で自分を 『好きだ』と素直に言えるコトが、こんなに楽チンで幸せなコトだとは、苦しかった時期には想像できなかったコトだったなあと思う。

『これでいいのだ!』と腹をくくれたら、もうそのまんまなのだけれど、これでいいのだ。

選択肢はたくさんある、後ろ髪引かれる想いがあるのも事実。それでも、ここへ!と腹を決めたのなら、後は進むのみ。

人生は常に一択で、そうやって決断をしながら進んでゆく。これしかない。

後悔したとしても、その時に自分がこうだと信じた決断を大事にしたいと思う。たとえピンチな状況となっても、結局、『さあここからどうする?』といいう今にある決断しかないのだから。

 

今の私。

故郷である愛知県から、縁もゆかりもない北海道、しかも日本のてっぺん・きた北海道にある豊富町という小さな町へ移住して、今度のお正月を迎えると、丸5年となります。

思い返すと、なんだかいつも不思議な気持ちになる。

それは多分、あまりに想像し得なかった暮らしであるからだろうし、未だに、鹿やタヌキやキツネがわんさかと居る真っ暗な夜道を目を凝らしながら車で走っていると、『なんでこんなコトしてるんだろう?』と、不思議な気持ちになるのです笑

思えば、愛知県で生まれ育ち、カラダの弱さもあったから、海外へ行ってみたいとか思い切ったコトをしたい気持ちとか、まるでなかった育ち方でした。

常に健康が欲しくて。

健康そうに見えるヒトを見るたびにうらやましくて。

なんで生まれてきたんだろう?と何度も何度も考えたし、死後の世界を想像し、きっとそっちのほうが痒くもないし、楽なんじゃないかと思ったり。

誰しも苦しみはあるし、誰より誰が重たいなんて言えない。

しかし私の父には、『お前の苦しみなどたいしたものではない』と何度も言われた。そのコトバを根に持ち、なんて理解のない両親だ!と、責めたりもした。

そんないろいろがあったからこそ、それにもがき苦しんだからこそ、結局は『ヒトはヒト、自分は自分だよ』というとてもシンプルな結論に行きついたように思う。

ヒトそれぞれ。

考え方はそれぞれなんだと、ただそれだけのコトなんだと分かれば楽になったけれど、やっぱり、もがいてきた日々こそが、今の穏やかさを支えてくれていると思います。

 

結局は自分。

ヒトを責めるのも、ひとつの感情。それで解決するのならそれでもいい。でも、多分解決しないんです。結局は自分だから。

その責める気持ちの奥には、『もっと理解してほしい』とか『痛みに寄り添って欲しい』という、さみしさのような感情が山ほどあった。

自分自身がもっともっとその部分に意識を向けて、『自分で自分を抱きしめるコトも出来るんだよ』と、当時の私に言ってあげたい。

ヒトの理解を得ると、いくらかは楽になる。それは確かにそうなんだけれど、結局は、自分で自分にOKを出せないと、根本的な解決にはつながらないと思うのです。

しかしそもそも、『なんで生きているのか?』と考えるようなゆとりがあるだけ、幸せなコトですよね。

広い広い世界には、夜食べるモノを必死で探したり、命の保証のない暮らしを強いられている方々もいらっしゃる。

それを思えばなんのその。と思うのだけれど、なのになぜ、悩みは生まれるのか。。。

苦悩はなぜなくならないんだろう。

それが、『生きている』というコトなんだろうと思う。ヒトそれぞれの環境で、思い方で、在り方で。

もっとスッキリする方法を知りたくて、楽に進める道を知りたくて、日々、試行錯誤を続けております^ ^

わざわざ荊(いばら)の道を進むコトはないんじゃないかなと思うし、楽チンなほうに進んだからって、学びがない訳でもない。

若いうちの苦労は買ってでもしなさいって、そんな世代でもないんじゃないかと思うし。

 

なるようになるさ。

明日は明日の風が吹くし。

そんな毎日の中で、今の風を感じ、今ある環境をじっくり見て、決断するチカラを養ってゆきたい。

 

 

ありがとうございます。

 

 

 

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