日本のてっぺん・きた北海道を拠点に『沖ヨガインストラクター』として活動しているまなみんです(╹◡╹)
先週末から、故郷である愛知県に帰っています。今回の滞在は5日間。
朝早く起きて、家族3人の家からすぐそばにある私の実家へ移動します。
そこで私の娘は、朝ゴハンを食べて、学校の用意をして、通学班のみんなと集まって、学校へ出かけてゆきます。
私が愛知に居ない時も、そんな日常。
平日の朝、そして学校から帰ってきて夜ゴハンまでは、私の実家に娘は居る。パパが帰ってくると迎えにきてもらい、夜は家族3人の家に帰り、パパと一緒に寝ています。
私は、娘が学校へ出かけると、用事がなければほとんど、実家のじいじの部屋に居ます。
じいじのベットのそばに、バランスボールとパソコンを置いて、そこで仕事をしたり勉強したりしつつ。ちなみにこの机は、じいじの車椅子で使う机^ ^
すぐとなりには、じいじのベット。
じいじは、昨日70歳になりました!
『お誕生日おめでとう!』と朝言ったら、『ちっとも嬉しくないわ!』とひと言。
まあ気持ちは分からんでもないけど、やっぱり何歳になっても誕生日って、産んでくれた親に感謝する日だわ〜と、私。
じいじを生んだおばあちゃんは、もうこの世にいないけれど、ココロの中にはいつまでも居る。
でも、私が中学2年生の時に亡くなったおばあちゃんとの思い出は、あまりないんです。きっと、たくさん大切にしてもらったのだろうけれど。。。
一緒に車に乗った時、おばあちゃんの手の血管があまりに浮いていて、それを病気なのかな?と思ったコト。なんでこんな場面を鮮明に覚えているんでしょうね笑
そして、私に初潮が来た時、赤飯を炊いてくれたコト。『これでもう大人なんだからしっかりしなきゃいかん』と言われたのを、今も覚えてます。未だしっかりしてないのは、まあ置いといて笑
じいじは3年前の春、高所落下の末、首の骨を折りました。そして脊髄神経を損傷し、胸から下に麻痺か起こり。寝たきりとなりました。
道端の木の枝を切っていて、足が滑り川へ転落。その際、打ちどころが悪く、首の骨C4.C5を脱臼。
◎その時のコトを振り返った記事→★★★
今でも、ふと移動中なんかに思うんです。じいじはもうこうして歩くコトはないのかな〜、と。
階段を登って、ふう〜とひと息ついた時。
飛行機のタラップを転ばないようにと、気を付けて降りた時。
車から脚を出して一歩降りた、その時。
なんか、不思議に思うんですね。あまりにあり得ないように思って。3年の時が経ったけど、何かの間違えではないのか、夢だったんじゃないかと。
最初の頃のように、混乱するコトはもうなくなってきたけれど、現実はやっぱり厳しくて大変で、今でも、起こった現実を不思議に思うコトがよくあるんです。
しかし、父は強かった。
私もおそらく、強いです。落ち込むコトがたまにあれどそれは続かないし、基本何とかなると思っている。転んでもただじゃ起きないと思ってます。多分、かなり打たれ強い。それは父譲りなんだろうと、今回のコトで改めて思ったコト。
こちら、父の体操風景。
残存機能は、ほんのわずかです。こうして腕の上げ下げをしますが、左手首の自由は効かず、指も動きません。
救急車で搬送され、急性期治療。
北海道にいた私は、急いで愛知県は帰りました。父は手術が終わり、ICUにいて。それはもう、ドラマみたいな現場!息が出来なくなったのを今も覚えてます。この時はさすがにマイった。。。一生歩けないと言われ、恐怖で眠れなかったのを覚えています。
回復期でのリハビリ。
自分でゴハンを食べれるようにと、とにかく右腕ばかりを動かす練習をしたそうです。左腕へのアプローチはほとんどなかったそうで、結果、左腕は損傷当初より動かなくなってきた、と父。
仕方ないコトなのだろうけれど、左右非対称になるばかりで肩が痛いのではないか?と、つい私は思ってしまう。部分的にカラダを鍛えたり使ったりするコトは、全体のバランスがおかしくなる。私にはリハビリの知識はないし、現場経験もないです。ただ、全体のバランスをとってゆくとカラダは良くなる、という感覚が染みついているんです。
右往左往の日々の乗り越え、1年かけて家に帰ってきました。そんな様々な経験を経て、とにかく元の性格でもありますが、『自分で出来るコトはとにかくやる』として、今は家で暮らしてます。
それを支えるばあばも大変。やっぱり、介護は大変です。大変。やっぱり、ケンカも絶えないし、ゆとりがないから、やさしさを持ち合わせるコトも難しい。
でも父は、淡々と続けてます。
腕の体操、首の上げ下げ、肩の体操、そして深呼吸。
これはこの前テレビで観て、やってみたら調子が良かったから続けている、というメニューもあったり。
右より弱い左手首もあきらめず、毎日毎日動かしています。
朝起きたら深呼吸をする。
ゴハンを食べる前には必ず運動をする。
深呼吸は、毎日最低3回行う。体操は8回以上。これは、父のマイルールです。
昨日、それを改めて聴いたんです。そうか、大怪我をしてリハビリを受けて、自分で何か出来るゆとりが出来てからは、ずっと続けているというコト。
深呼吸すると、感覚のないはずの脚を感じ、あたたかいような感覚になるのだそうです。
腕肩の体操をすると痙縮が楽になり、治まりはしなくとも、寝れるくらいまでになるのだそう。
◎痙縮とは?→★★★
脊髄損傷となると、排便・排尿感覚もないのです。発汗障害もあり、ほんの少し寒いだけで震えてしまい、ほんの少し暑いだけでのぼせてしまう。
脊髄損傷って、想像を絶する大変さだと思います。
その上でじいじは、頭部の損傷はなかったので、3年経った今もしっかり考え、意見を出して、強過ぎるほに!どしっかりしています。
脊髄損傷って、上位損傷であればあるほど大変。せめて握力がもう少し残存していて、指が自由に動けば。
体幹保持が出来れば、もっと軽い車椅子に乗れて、自立移動も出来ただろう。
思うコトはいろいろあるけれど、あれこれ言ったって仕方ない。今を受け入れて、ここから何が出来るかを考えてゆくコトですね。
父と同じような損傷でも、あちこち旅行をしたり、アクティブに動いている方もいると、ネット記事なんかで知りました。え〜っ!と、ビックリするのだけれど。
確かに、空調の効いた室内にばかりいるから、なかなか強くはなりません。でも、風邪をひくのも怖いし、これ以上体調が悪くなる怖さは、よくよく分かるし。しかしそんな中も、毎日こうして淡々と続けているコトは素晴らしい!!
私はイチ運動指導者として、父が背負った大きな試練に立ち会い、そこで味わった痛み苦しみを、日々への感謝につなぎ、プラスに転化してゆけるよう生かしてゆきたいと思ってます。経験を生かすしかない。背負った傷を癒すのは、それしかないと思います。
なぜこんなコトになったのか?
そんなコト、いっくら考えても分かりませーん!!そんなコトを考える暇があれば、これからどうするか、より良い策を練ります。
私の命を生み出してくれた父のカラダが不自由となり、母はそれを支えている。大変です、そりゃ大変なコト!その事実を受け止めて、私には何が出来るのか。
こうして帰ってきてそばにいて、とりわけ何かしている訳ではないです。結局日々の介助は母がしている。その方が父も楽で、母も結局手を出してしまうし、それが日常として成立しているのだろうと思います。
でも、少しでもお互いが生きている間、命がある間に、こうして一緒にいられたらいいな、と。そう思ってます。
ホントなら、北海道での暮らしを引き払い、故郷である愛知に帰ってくるほうが良いのだろうとも思ってます。よくよく『そうしなさい』とも言われるし。(状況もよく知らずにあれこれ言ってくる方は、ちょっと迷惑で〜す)
それは分かってます。
充分分かった上で、私は私の健康を守り、仕事を守りながら、自分に出来たゆとりを持ち続けながら出来るコトを探すコトにしました。
もう私が大きく体調を壊しても、面倒を見てもらうコトは出来ない。
私は、このカラダを大切にして、自立出来るコトを一番に大切にして、とにかく仕事を続けてゆけたらと思っています。
何がベストかは分からないし、自分が正しいとも思わない。ただ、なるべくなら後悔のないように、自分がどうするかは自分で決めようと思ってます。
父の努力に触れ、私もますます励もうと、気を引き締め、思うのです。
ありがとうございます。
コメントを残す