日本のてっぺん・きた北海道を拠点に『沖ヨガインストラクター』として活動しているまなみんです(^^)
『稚内市』で迎えた朝です。
ここは、海が見えるマチ。
港町。
船の汽笛がたまたま聴こえてきた。
きっと島に向かうフェリーだろうなあ。観光シーズン真っ只中の今、きっと満員のお客さまが乗っていて、座れないかもしれないな。それでもワクワクと^^
今日もまた、いろんな出会いが生まれて、それが時に人生を大きく変えるモノになったりして。旅ってホントに面白い。
そんなコトを、ツラツラと思う。
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健康って貴重だなあと、こんなコトを思うたびにつくづくと思う。
絶不調の頃には、こんなあれこれを思うゆとりは少しもなかった。 船の汽笛に耳を傾ける余裕なんてなかったし、見知らぬヒトの楽しみに想いを馳せる余裕など、微塵もなく。
カラダの不調は、ココロにも大きく影響する。
昔の私は、ココロもカラダもカチカチで『生きにくさの見本』みたいだったなあと思い返す。
そんな、頑なに固まった私は、たくさんの涙によって、ゆるんで、溶けて、柔らかくなったのかな。
辛くて、痛くて、たくさん泣いた。
泣きたくてというより、あまりの不甲斐なさに、もどかしさに、やり場のなさに、涙が出てくるんです、勝手に。
でも今思えば、涙が出ただけ良かったなあとも。
涙も凍るほどには、固まってはいなかったのかな。
そう思うと。やっぱり、いつもまわりに助けられていたんだと思う。
それに対しては、ただただ『ありがとうございます』とばかり。
ホントに。
ありがたいサポートあっての今です。
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自分をしっかり持っていたい。
自分の人生自己責任だし。
自分で責任を持つから、本気にもなるし、心底向き合える。
そうなんです。
そうなんだけど、結局は、そんな私を支えてくださる存在に結局は助けられている。
ヒトは結局にところ、そんなに強くはないと思うし、完璧などない。
たまに変な波に乗っちゃって、何だか分からないほどにパワフルになっちゃうコトがある。気持ちが大きくなっちゃって、出来ないコトが出来たりもして。でも多分それは一時的なコトで、いわゆる『特別』という状態であって長続きはしない。
それは、いわゆる『ブーム』という感じ。
じゃあ『普通でいいじゃん』となるけれど。
今度は、『普通ってなんだ?』となる訳で笑
普通って何?
普通って。。。
よくよく、よーく使われるワードだけれども、そもそも何でしょうか。
何を現しているのか?
多分、そのヒトそれぞれの常日頃。価値観のベースなんだろう。
ポイントは、『そのヒトの価値観』って部分。
万人の、ではなくて、そのヒトの。
『私はそうでも、アナタは違うのかもね』
この視点を持っているかどうかによって、『普通』と一括りにする概念の在り方が大きく変わる。『普通はね』と一括りにばかりしていると、時に相当『害』にもなる。
私の普通、アナタの普通。
その『境界線』が分かっているといい。
これ、かなり大事だと思う!
共通する部分を見つけたなら、分かち合えるコトを喜んだり、嬉しい気持ちを味わえば良いと思うし。
どれだけ子どもが大切でも、子どもは自分とは全く別の人格を持った存在。
血の繋がりがあるから似ている部分があるだろうし、腹を痛めて産んだからとあれこれ口出ししたくなるけれど。
そもそも、子どもは自分ではない。
ヒトは、ヒトを所有出来ない。
支配すればするほど、お互いが歪み、苦しくなるだろうと思う。
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一般常識。 世間体。
そんなのいらない、とは思わない。
それなりにあったほうが良いだろうし、『秩序の維持』という、人間だからこその社会形成があるんだし。
ただ、枠としてガチッと固められると居心地悪いね、というトコロ。
『ぼんやりと』と言うと柔らか過ぎる表現かもしれないけれど、『いつもフワッとそこにある』感じで、塩梅良く行けないかしらね、と。
きっと、必要以上に締め付けず、不必要に突き放し過ぎず、『ほどほど』の置き所を。収まりやすい感じが分かってくると、きっと相当に楽チンなんだろうなあと思う。
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船の汽笛が聴こえたんです。
すると、その汽笛が私の胸に響いたからなのかな。こうしてツラツラと、私の内側から想いが湧き上がる。
私は、書くコトで表現するのが好きだし、得意なんだろうな。
今日はお休み。
ある日の朝、ふとしたのんびりな時間を過ごしている今。
こんな『ゆとり』って、ホントに大切だなあと思う。
湧き出る想いに向き合えるゆとり。湧き上がる想いを文章として書き綴るコトが出来るゆとり。
ゆとりって、きっといろんなコトを解決に導くだろうし、それを失うと、いろんな局面にて苦しみに追いやられるんだろう。
ゆとりは、『隙間』とも言う。
アナタの今に、ほどほどの隙間がありますか?、と^ ^
若い頃、一気に駆け上がる時期とかは、少々タイトでもやってゆける勢いとかあるんだろうけどね。 私もそうだったように思います。
でも今は、もうそんな時期じゃないと感覚的に思ってるし、分かってもいる。
そもそもカラダがついていかないしね~笑
いいんです、それで。
今の私を受け止めて。心底受容してこそ始まる境地があるのだから◎
腹を決めたらあとはやるだけ!
43歳の私には、43歳の生き方があり、役割がある。
それで良いと思う~^ ^
たとえば、愛してやまない北の怪植物『エゾニュウ』さまで観てみると。
こちら、
旬、ですね!まさに駆け上がる時期です。
そして、こちら。
枯れかけています。が、この時期の美しさがある。
そして。
立ち枯れてもなお、美しく。
エゾニュウさまは、海岸沿いの海風厳しい地においても、雪の時期までもを乗り越え、立ち枯れてなお美しく、凛と立ち続けている。
私は、その凛々しい姿に勇気を与えてもらうし、この個性的で奇抜なフォルムに心底惹かれるのです。
雨にもマケズ。風にもマケズ。雪のも夏の暑さにもマケヌ。
ありがとうございます。
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