日本のてっぺん・きた北海道を拠点に『沖ヨガインストラクター』として活動しているまなみんです(^^)
今日は、娘がキャンプに行ったお話です。
私は北海道。娘は愛知県。私たち親子は離れて暮らしています。
先月10歳となり、娘は、『私は10歳やから「テンサイ」なんだ』と言い、ひとりで喜んでました笑
遠く離れて暮らしていますが、少しの時間でも電話をしたり、なるべく帰るようにもしています。
少しでも彼女の気持ちを知っていられたらと思うし、心底愛しているというアピールは、自分なりにだけれど、いつもしており笑
そんな10歳娘が、学校の友達に誘ってもらい、1泊2日のキャンプへ行ってきました。
ある日の電話。
『ねえママ、私キャンプに行きたい。』と。
聴けば、仲良しちゃんが通っている運動教室では、毎年恒例で泊まりのキャンプに行くそうで、そこに一緒に行こうと声をかけてもらえたのだそうです。
どんな団体なのか、誰が連れて行ってくださるのか、よく分からなかったのだけれど、そこは愛知の家族に任せて。
ひとまず娘が行きたいというなら、ぜひぜひ。
娘は、夏休みとなりすぐに行けるキャンプを楽しみにしてました。
考えてみたら、家族以外とのお泊りは初めてであり。
というのを、娘がキャンプから帰ってきていろいろ楽しいハナシを聴かせてもらっている時に、ふと気付いた私(;^_^A
それはある意味、記念日のような出来事でもあり、こうやって子どもはどんどん親から離れていくよ。というコトだろうと思うのですが。
『私、キャンプすっごい楽しかったんだよ』と、なぜか誇らしげに聴こえる娘の声。電話越しでも、その満足そうな雰囲気がよくよく伝わってきます。
『ほうほう、何がイチバン楽しかったや?』と私。
すると、『友達とお泊りが出来たコト。』と、娘。
そうか。
どこへ行ったとか何があった以前に、友達と一緒に出掛けて泊まってきたというコト自体が相当嬉しいんだ、と。それが、とてもよく分かる気がしました。
10歳の娘の世界は、これからもまずます広がるばかりだろうけれど、小学校高学年となり、さらにグンと広がったような感じです。記憶はないけれど、私にもきっとこんな時があったんだろうな〜
そしてさらに娘、『私、夜更かししたの~!』と。
『ほうほう、何時まで起きとったや?』と聴くと、『ママが聴くような時間じゃないから聴かないで』と言う。しかし、あきらかにもっと聴いてほしそうな雰囲気であり笑
『怒らへんで言ってみやー』と私が言うと、待ってましたとばかりに娘、『夜中の2時!!!』と。
へぇ~!
想像以上に遅い時間!笑
何をしていたのかと聴くと、積もるハナシが途切れなかったのだそう。積もるハナシったって、学校で毎日会っていて、夏休みになってまだ2日しか経っておらず、それほど積もってもいないでしょうに笑
2時まで起きてたのに、次の日の起床時間は5時だったそうで(^◇^;)
プログラムに『朝活』などがあったのでしょうか。
たったの3時間睡眠でキャンプを楽しく乗り切り、大喜びで帰ってきた夕方。
燃え尽きてベットに倒れ込むと、これまたなんと、13時間寝続けたのだそうです。夜ご飯も食べず、朝ごはんも食べず。
若いですね~
娘の成長を感じるこんな時。
この時はゆっくり話せずに、5分10分の電話だったけれど、とにかく誇らしげな娘の様子に、何だか切ない気持ちと嬉しい気持ちと、いろんな想いが湧いた私。
『親って切ない』
これは、よくよく思うコトです。
たとえ嫌われようがどうなろうが、とにかく子どもの無事と幸せを思う。私自身子どもの立場として、親に何度言われたか知れません。
『あんたがいつか親になったら今のお母さんの気持ちがよく分かるわ!!!』と。
投げ捨てるように、何度もこう言われた記憶があるけれど、多分、その時に言っても無駄です。
結局分からへんし、むしろ反発を買うだけ。
それでも、今もこうして私のココロの中に残っているというコトは、それなりに意味があったのかもしれません。。。
コトバって、その時伝わらなくてもいいから、いつか伝わったらいいな、というモノでもあるし。
全ての要は『今』だけれど、その今を形成する土台である過去があり、過去と今の積み重ねが、未来という積み重ねとなってゆく。
すべてはつながっているモノであり、どこかだけを切り取るコトが出来ないから、たとえ地獄のような苦しみを経験したとしても、それに蓋をするのではなく、じっくり味わいつくさないと、次の段階には行けないんでしょうね。つながっている以上、結局は引っ張られて出てくる。
『未完了な感情』が邪魔をする今のいろいろって、意外なほどにあると思うのです。
結局こところ、日頃に引っかかる様々は、自分自身に『種』があるコトが多い。『誰かが私に何かを言ったから傷ついた』のではなくて、『誰かのコトバをきっかけに私の種に触った』というのがホントなのだろう、と。
娘はどんどん育ち、私から離れてゆくだろうなあ
そりゃそうですよ。それで良いのですよ。私だって親からどんどんと離れて、今は、暮らしている場所までこんなに離れてしまって(;^_^A
いろいろを思った時、結局最後にそうしようと胸に刻むのは、『いざという時に頼ってもらえる親でいられるコト』。これに尽きます。
そのためにも、私自身が成長するコト!
よく聴く耳を持つコト!
自分のモノサシでばかり測らないコト!
今は、嬉しいコトがあったらすぐ話してくれるし、褒めてもらうと嬉しいとか言って近付いて来てくれるけど、もう数年も経ったら、その感じはガラっと変わっているのかも知れません。
彼女がこの先、私との間にどんな『間合い』をとってくるのかは分からないけど、多分親である私は、多分受け身であるコトが多い。
楽しくて嬉しい毎日をぜひ過ごしていて欲しいけど、いざと言う時、例えばこれからの進路に迷ったり、トラブルが起きてしまったりした時に、ぜひ、私を思い出してくれたらいいなあ、と心底思う。いや、願ってます!
もちろん、パパでもよいですよ〜
親って、そんな切ない役回りでいんじゃないかと思うんです。
子どもの人生にガツガツ踏み込んでいかなくても。代々家業がある家に生まれた子でもないし笑
私の父の願い。
私の父は、強く家を継いでほしいという想いがあるようです。しかし、これだけ人口が減るばかりのこの国で、今ある全部の家を守ってゆくのはかなり難しい。無理です。
そりゃあ、守れるモノはどんどん守ってゆけたらよいけど、親が大事にしていたモノだからといって何かを受け継ぐ子は、子にもそれなりにそこに向ける想いがあるだろうと思うんですよ。ただ親が大事にしていたからと言うだけで、有限である自分の人生の貴重な時間を使って何かをするには、やっぱり限界がある。
そんな簡単に、スーパーマンにはなれないだろうと思います。せめて自分が大切だと思うヒト・コト・モノを大切にしながら、余力の範囲でまわりのヒトの大切なヒト・コト・モノを一緒になって守ってゆけたら、まずはそれで良いのではないか。
自分の代で長く続いた家が途絶えるのは、耐え難い。父のその想いも分かる。辛いんだろうなあって。話し方からしても、よくよく分かります。
しかし、自分ではなく次の代になんとかつながったとして、その次の代で途絶えたとしたら、自分の代じゃなかっただけ良かった、となるのかな。それは、よく分からないです。どれが答えというモノではなくて、それぞれの『価値観』なんだろうなあ、と。
ヒトはそんなに大きくない。
ひとりひとりって、小さな存在です。
だから集まって、大きなチカラにして、無限の可能性を信じて進んでゆくのだけれど、社会に大きな影響を与えている著名人だって、日々の暮らしは何気ない小さなモノの積み重ねだと思う。大切な家族に支えられていたり、愛するヒトの存在がそのヒトのチカラやヒカリを支えているのだろうと思うし。
ただただ思うのは、『家族』という世界で一番小さなコミュニティは、かなり大切。
ひとり家族なら、それも良いんです。家を大切にするコト。共に暮らすヒトがいるならば、そのヒトを大切にする。離れている家族がいるならば、なるべくいつも、ココロをかけて、向けてゆけるように。
血縁がすべてではないけれど、自分が『家族ほどのヒト』だと思える存在って、生きてる間にそうそう出会えないだろうし、そんな存在に出会えたからには、誠心誠意、精一杯で大切に出来たらよいなと思うのです。
幸多き人生を。
娘にたくさんの豊かな出会いがありますように。
時に、苦しいコトがあってもよし。親は、身を切られるような想いになるだろうと思うけれど、そんなコトもなければ、強くもなれない。人生の彩りって、辛く厳しいコトが支えているのかも知れません。
出会いは人生最大の宝だと思う。
どうかどうか、豊かな出会いがあふれますように。
『祈るチカラ』ってきっと、かなり大きい。
祈る。
それは私たち現代人が、きっと一番に忘れてはいけないコトだと私は思ってます。目に見えないチカラを忘れた時、きっと大きな落とし穴がある。
今日も何気ない暮らしの中で、大切なヒトの幸せを祈っています。

ありがとうございます。
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